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両文化の架け橋の狭間で

 *原文: 墺日協会(編) 『ブリュッケ(brücke)』より„Lücken und Brücken zweier Kultur“ (2015/2)

 

 「私には二つの故郷があります。ひとつは日本で、もうひとつはオーストリアです。でも、どちらが私の本当の故郷なのか、わからないでいました。オーストリアでは、黒い髪とアジア人特有の目が人の注目を浴びて、容姿が他の人と違うと言われてきました。日本では、ハーフだということで、普通には見られません。」

 これは、オーストリアの首都ウィーンで開催された 多言語スピーチ大会『Sag’s Multi』(2013-2014年度)で、当時14歳だった アンナさんが話していたスピーチ(原文ドイツ語)の一文です。

 グローバル化が進むこの時代、国際結婚はあまり珍しいことではなくなりました。今日では、日本のテレビなどで「ハーフ」という言葉を耳にしない日はないほど、まるでハリウッドスターのように、日本社会に根づいてきています。今最も有名なオーストリア人と日本人の「ハーフ」は、トリンドル玲奈でしょう。彼女もまた、日本の世間が抱くイメージの「ハーフ」という役割を見事にこなしているように見受けられます。 2020年のオリンピックの開催地を決めるICO総会でも、フランス人と日本人の「ハーフ」が、彼女の母語である仏語と日本語の両方で挨拶の言葉を述べていました。日本では知らない人のいない「ハーフ」アナウンサーである滝川クリステルは、日本独自の「おもてなし」の精神を世界へ発信しています。サンドラ・ヘフェリン著『日本在住ハーフな私の切実で笑える100のモンダイ』(2013)でも述べられているように、お互いに違う祖国を持つ両親の元に育つ「ハーフ」の子供たちは、その人生の初めからアイデンティティ(自己同一性)の問題を抱えて生まれてきます。しかし、これは、必ずしも「ハーフ」(もしくはその他「混血児」)だけの抱える問題ではありません。

 例えば、私のような、「ハーフ」でなくとも、自分の祖国を離れ、そこで育つ子供たちがそれに価します。私の親は両方とも日本人なので、私は(ヘフェリンのいう)「純ジャパ」に属しているといえますが、いわゆる「普通」とは違い、私は日本で生まれ育ち、中学校2年を終了した14歳の時にオーストリアに移住しました。そして、それからの約14年という年月、この土地で生活しています。たまに、友人らに「私が本当の『ハーフ』です。」なんて冗談を言ったりしているのですが、私は人生の約半分を、ここオーストリアで、その半分を日本で過ごしていることになります。正直にお話ししますと、この二つの相反する国の狭間で生きることは、そんなに簡単なことではありませんでした。他の「ハーフ」と同じように、「純ジャパ」である私も、アイデンティティの葛藤があり、自己が確立できたと感じている今でも、日本とオーストリア両国に存在する、お互いが抱いている偏見とずっと戦い続けています。そういう中で生きてきて、気がついたことがあります。それは、何よりも誰よりも「自分自身の偏見」と戦う機会が多かったことです。たくさんの問題や困難を乗り越えて今、過去を思い返すと、私はオーストリアと日本の両国に対して、偏見のない「健康的な考え」を持つために、自分自身の考え方を根本的に変えなければなりませんでした。しかし、このことに気がつき、バイ・ナショナル(二国間)の世界に足を踏み込む覚悟ができるまでに、多くの時間を費やさなければなりませんでした。

 オーストリアや日本にかかわらず世界中で多くの人が、「外国人の親を持つ子供は、両親の出身国、両方に詳しい」と信じ込んでいます。これは、全く間違っているわけではありませんが、正解でもありません。私の経験から言うと、「ハーフ」とカテゴリー化される人の中では、どちらかひとつの国については詳しくても、逆にもう片方の国についてはよく 知らないという人が圧倒的に多いのが現状です。どちらか片方の国に知識も経験も偏っているのがごく一般だと思います。言語に関しても、同じことが言えます。わたしはこれまでに多くの日系「ハーフ」と出会ってきましたが、両方の国の言語を問題なく話せるという人は考えているよりも遥かに少数です。当たり前のことですが、何もしなくても「自動的に」何かができるようにはなりません。両方の国のことを理解するため、両方の国の文化の中にいながら「居心地がいい」と感じることができるまでには、多くの時間を過ごして、それなりに努力をし、汗を流さなければなりません。バイリンガルの頂点ともいわれている職業の同時通訳者も、彼らを知れば知るほど、「ハーフ」かどうかという点は、直接的に「高度な言語能力」にはつながらないということが分かります。「ハーフ」もまた、「混血児」というカテゴリーには属さない「純」オーストリア人や日本人と同じく、大変な努力が必要になります。

 しかし、この「ハーフ」に該当する人の中には、両方の国を知ろうとするのではなく、片方の国の文化を切り捨てて生きる、という選択をする人々がいます。子供時代を二つの文化圏をまるで彷徨うかのように過ごし、やがてその二つの文化の狭間に落ち込み、抜けられなくなる — 。すぐに出口を見つけることができないが故に、いち早くこのジレンマから脱出するため、両文化のどちらかひとつを選択して、そちら側を歩むことを決断します。しかし逆に、この両文化の狭間にとどまる決意をする人々もいます。どの選択が正しいのかは、その人生を生きる本人が決めるべきことです。私の場合は、後者を選択しました。私はその決断をしたときから、自分の一生をかけて、両国の文化の架け橋となれるように努力してきました。それからしばらくして、同じように両文化の狭間に滞在し、架け橋をつくろうと志す人々に出会ってきました。しかし、日本とオーストリアの間に存在する「谷」は、考えているよりずっと深いものでした。しっかりと土台のある架け橋をつくるためには、本当にたくさんの忍耐と時間が必要だと思います。しかし、それゆえにオーストリアと日本の間に友好関係が芽生えたときの喜びは、その何十倍にも相当する本当に素晴らしいものです。

 

 このような「架け橋」にふさわしい例がひとつあります。それは、2014年12月にウィーンの美術館群ミュージアムクオーター(MQ)で開催されたワークショップでのことでした。日本の石川県から訪れた、ものづくりの巨匠たちが、オーストリアのものづくりの巨匠たちと出会い、それぞれの文化圏で長い時を経て伝統を守り続け、じっくりと磨き上げてきた技術を学び合い、それぞれに影響を受けあっている様子が伺われました。もしかすると、これをきっかけにまた、それぞれの巨匠がそれぞれの国でさらに新たな作品を生み出していくのかもしれません。この催しで、日本人のある巨匠の方と直接、お話をする機会が与えられました。この方は私に、外国の文化にしても、新しいアイディアにしても、それらに対して常に開放的でいることがどれだけ大切であるかをお話になりました。

 「過去何百年の歴史を振り返ると分かるのは、特に素晴らしい功績を残した時代は、他者に対して偏見なくオープンでいた時代です。保守的な人間は、価値あるものや、特別なものを生み出すことはできません。それどころか、閉鎖的でい続けることで、商売が滞り、店をたたむことにもなりかねません。」

 

 「知らない人」(外国人)に自分のドアを開けるというのは、かなり勇気のいることです。けれども、勇気を出してそのドアを開けたとき、ひとりでは絶対に見ることのできなかった世界を見つけることができるのだと思います。人が人を繋いでいくのです。日本とオーストリアには深く大きな谷が存在していますが、その両国に橋をかけることは、いつだってできるのではないでしょうか。 (終)

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