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外国語から国語へ
— 沖縄における日本語教育史1
(Von der Fremdsprache zur Landessprache – Entwicklungsge- schichte des Japanischen in der okinawanischen Schulerziehung)

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http://www.japanisch-als-fremdsprache.de/jaf/003/JAF_003_6.pdf

要旨 / Zusammenfassung

この稿では、 学校教育を通し、どのようにして「外国語」で あった日本語が沖縄において「国語」、そして「日常語」へ と変化を遂げて行ったのか、その歴史をまとめる。

In diesem Beitrag handelt es sich um die Geschichte der japanischen Standardsprache in Okinawa, genauer gesagt ihr Werdegang von einer Fremdsprache zur Landessprache (kokugo) und eine Erörterung der Frage, wie es möglich war, einer fremden Sprache durch Schulerziehung den Status einer Alltagssprache zu verleihen.

 

1 はじめに

 日本語講師としてウィーン大学で教え始める前まで、筆者 にとって「日本語」という存在は簡単には消滅しない、何か 確実なものであるという印象が強く、一言で言えば「日本人 が話す言葉が日本語だ」という程度の曖昧な認識だった。し かし、 文献を調べると、「母語」や「言語」という概念は決 して「決定的なもの」では無い。例えば「国語」「東京言 葉」「標準語」「共通語」「普通語」はすべて「日本語」を 示す言葉である。過去を振り返ると「日本語」には他にも 様々な名称が存在している。「国語」が成立したのが 1900 年 頃だとされ、それ以前「日本語」や「標準語」の定義は未完 成であった[イ 1996]。後にも触れるが、言語の定義は非常 に曖昧であり、困難である。

 また、セルボ・クロアチア語を見てもわかるように、ひと つの言語が形成されるまでには政治的効力が大きく関与して いる。セルボ・クロアチア語はセルビア、コソボ、クロアチ ア、ボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロの 5 カ国で話 されているが、1991 年のユーゴスラビア連邦崩壊により、セルボ・クロアチア語はオフィシャル・ステータスを失い、現 在「セルボ・クロアチア語」は正式には存在しておらず、セ ルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語とい うイディオムにそれぞれ分離され定義されている[Kordić 2009]。この実例が示すように、「言語」という概念は政治的 効力によって大いに変化し得るものであるということがわか る。沖縄民族の母語だと言われている琉球諸語も政治的な効 力により、日本の方言へと分類されるようになった。

2 琉球諸語 — 日本の方言か個別言語か

一般に琉球諸語は日本語族に分類されている。これは 1895 年 に B. H.チェンバレンが“Transactions of the Asiatic Society of Japan”に投稿した研究報告が元になっており、そこには「日本 語と琉球語は同じ祖語を持ち、それぞれ枝分かれした」と記 されている。しかし、この研究でチェンバレンが扱ったのは 当時琉球の公用語であった首里語であり、それ以外の琉球諸 語は取り上げていない。今日では、奄美・沖縄・与那国・八 重山・宮古の5つが琉球諸語として数えられているが、いず れも「方言」として定義されている。外間守善らが指摘して いるように、日本国内で琉球諸語は日本の「方言」であり、 決して「言語」ではなく、多くの日本の言語学者は「琉球 語」という言語の存在を認めていない[外間 1971: 18]。しかし、それに異議を唱える研究者もいる。獨協大学のパトリッ ク・ハインリッヒや中京大学のましこ・ひでのりなどは、日 本における言葉をすべて「方言」として「標準語」の下に位 置づけようとする定義を批判している[Heinrich 2010]。また、 国際連合・教育科学機関のユネスコは 2009 年に「沖縄には6 つの言語が存在し、それは危機的状況である」という報告発 表を行っている。

 学者の間でも琉球諸語が言語か方言かというのは、未だは っきりしていない。しかし、実際に琉球・沖縄でどのように 「日本語」が学ばれていたのか文献を調べていくと、「日本 語」は琉球・沖縄にとって紛れもない「外国語」だったとい うことがわかる。これについては次の章で詳しく述べるが、 日本語が琉球・沖縄人にとっての「国語」ではなく「外国 語」だったからこそ、初期の授業では翻訳や通訳が必要不可 欠だったのである。すでに述べてきたように言語を定義する のは困難であり、また「日本語」という定義も非常に曖昧で はあるが、この稿では歴史的な流れを考慮しつつ、「東京言 葉」(山手言葉)を基盤として作り上げられた「標準語」を 「日本語」として話を進める。

3 中国主義から日本主義化へ

 沖縄が琉球と呼ばれていた時代、日本との交流があったと はいえ、琉球にとっては中国が中心的な存在だった。琉球の 若者にとって、中国へ留学することが何よりの出世であり、 そのため当時、中国の共通語である官話を勉強するのが主流 であった。日本が中国から漢字を導入したように、琉球は日 本から平仮名のシステムを学んだといわれているが、日本語 を勉強していたという学生は少数派だったようで、文献を見 る限り、琉球にとって日本語は中国語の次に重要な外国語だ ったとするのが妥当ではないかと思う。日本語が本格的に琉 球の教育システムへ導入されたのは、 1880 年に「会話伝習 所」という師範学校が設立されたところから始まる。

琉球が日本の国となってすぐ最初のころ、日本政府は琉球 の学校制度を完全に禁止した。先にも触れたように 琉球の学 校制度というのは中国を基盤にしたもので、その目的は中国 への留学と中国の学問である漢学を学ぶことだった。1874 年 に台湾出兵により、何とか公式に中国(清国)と琉球との交 流関係を断ち切らせることに成功した日本政府は、中国中心 主義の教育を改革する事に必死であった。琉球の教育制度を そのまま残してしまうと、未来の人材である沖縄の若者は、 中国主義のまま成長してしまい、これは日本政府にとっては かなりの脅威であった。そこで、日本政府は日本の教育制度 を完全に導入することにより、沖縄を日本化するという手立 てを考えた。しかし、初期の頃は旧エリート層の地位にいた 人々が中国へ逃亡したり、大きな反発運動を起こしたりする などの事件が相次ぎ、旧沖縄の教育制度を完全に廃止するの が難しいという状況になった[近藤 2011: 192]。そこで、日本 政府は旧制度を残したまま、学校へ日本人の教師を送り込む という形で、少しずつ沖縄の学校を「日本化」していくとい う政策を取ることにしたのである。近代化を目的とした脱中 国主義精神を元にし、まだ日本本土でさえ「国語」という概 念が存在していなかった時期に、沖縄での「日本語(国語) 教育」が始まった。

4 対訳教科書「沖縄対話」から単一言語の教科書へ

1880 年 2 月に県庁内に開設した「会話伝習所」は、日本語 教師および通訳者を育成するために設立された。日本語を話 す僅かな沖縄人を入学させ、残りは日本から派遣された事務 局員という少人数でのスタートであった。この「会話伝習 所」は文部省からの許可待ちのための暫定的な施設であり、 存在していたのはたったの 4 ヶ月である。正式に文部省から許可が下りてからは、すぐに本土と同じ名称の「師範学校」 となり、沖縄全土に学生の募集をかけた。「会話伝習所」が 沖縄の教育史において重要な理由は、その僅か 4 ヶ月の間に、 明治初期・沖縄の日本語教育にとって中心的存在だった教科 書「沖縄対話」が完成しているからである。

図 1: 沖縄師範学校編纂『沖縄対話』上(1880)より抜粋 

(詳細は本文上部にあるリンク参照)

 「沖縄対話」には「学務科」が編集を担当したということ しか記載されておらず、肝心の作者は未だにわかっていない。 二次的な資料から、恐らく何人か「会話伝習所」にいた沖縄 人が日本語から琉球語(首里語)へ翻訳をしたのではないか という説[服部 1984: 93-94]もあるが詳細は不明である。この教 科書は 2 カ国語で書かれており、 はじめの一文は大きめに日 本語で、次の文は小さく首里語でという対訳式で構成されて いる。 始めに日本語、次に首里語という順序で書かれてあり、 また日本語よりも首里語の方が小さく書かれている。つまり 日本語が主要な言語であって、首里語はあくまで補助の言語 として編集された事が一目でわかるように書かれてある。加 えて、この教科書には日本語が敬語体で書かれており、本土 での教科書とは大きく違っている[近藤2006: 75]。また、教科 書の大部分が口語体で書かれているというのも『沖縄対話』 の大きな特徴である。

もともと『沖縄対話』は、師範学校で使用する事を目的と して編纂された書物ではあったが、沖縄で小学校が設立されると「会話科」という科目で教科書として使われるようにな った。なぜこの教科書を使用していたのか、正確な理由はわ からないが、いくつかの文献によると当時、本土から派遣さ れてきた教師と生徒との間には、言葉の問題により上手く意 思の疎通ができておらず、授業をするにも 現地語を介してで なければ授業が成り立たなかった様子が伺われる[太田 1932: 103]。また、日本人教師と並んで通訳をつけさせて授業をし ていたという記録もあり、琉球・沖縄人にとって日本語は当 初、外国語のようであったというのは決して誇張ではない。 伊波普猷によると、1890 年代頃はまだ「普通語」(日本語) を話す沖縄人はかなり少なく、当時日本語を話せるというと 今でいう英語を話せるというような感覚だったという [比嘉 1963: 4]。このような言語の面だけでも非常に混乱した中で日 本語教育はスタートしたわけであるが、その授業法は主に暗 記であった。『沖縄対話』にある文章をひたすら暗記させ、 毎日正しく暗記ができているかをテストするというのが主流 であった。テストにも翻訳を使い、教師が普通語(日本語) で質問すると、生徒は現地語で答え、その逆のパターンで交 互に日本語と現地語を使い、授業で練習していたことがわか っている[近藤 2006: 73]。1888 年になると日本本土と同じ教 科書が導入されるようになり、それ以後は対訳つきの教科書 ではなく、単一言語(つまり日本語のみ)の教科書が使用さ れていたことが伺われる。同時進行ではないが、それと平行 するかのように授業で使用される言語も日本語のみへと比重 が傾いていく。教育機関で日本語教育が本格的に始まった 1880 年から国定教科書が導入される 1904 年まで沖縄の小学校 で使用されていた国語の教科書をまとめると以下のようにな る。

図 2:沖縄の小学校で使用されていた教科書とその言語

(詳細は本文上部にあるリンク参照)

 この表でもわかるように、翻訳付きの教科書「沖縄対話」 が使われていた時期から日本本土と同じ教科書が使用されて いた時期までは、確実に授業内で首里語(および現地語)が 使用されている。つまり、この時期には現地の言葉というの が、日本語の授業で主要な位置を占めていたということになり、同時に 1900 年代はじめまでは、確実に沖縄での日本語教 育には現地語が欠かせない役割を果たしていたことになる。 しかし、そのような状況も、日清戦争・日露戦争による日本 の勝利、その他様々な政治的効力により、沖縄県用に特別に 文部省が作成・出版した「沖縄県用尋常小学校読本」(1897 年)が導入されてから、少しずつ現地語排斥主義という方向 へ進んでいく。その様子が伺える最初の手がかりとして、琉 球教育という教育誌に掲載されている報告書を見ると、例え ば、ある若い日本語教師が学校の上層部に「なぜ授業で琉球 語を使用したのか」[沖縄県師範学校付属小学校編 1904: 263] と責められる場面が出てきていることでも、伺える。更にこ の時期から、国語の授業内での現地語使用禁止の傾向が見え 隠れしてくるのである。

5 現地語禁止と恥意識

1903 年になると方言札が登場する。方言札とは学校内の学 生同士の会話で現地語を使用した場合に、それが教師や同級 生に見つかれば、罰として首にかけなければならなかった板 のことであり、沖縄で作られた罰則である。方言札をかけら れたものは、教師から説教され、教室の掃除をさせられるな どの罰を与えられた。1914 年から 1919 年にかけて沖縄の小学 校に通っていた仲宗根によると、その頃には方言札は学校で かなり定着しており、「常にどこかで誰かが見張っている感 じがした」[近藤 2006: 3]という。方言札はその後も沖縄の 学校に受け継がれていき、一部の学校では戦後にも使用され ていたことが確認されている[井谷 2006: 161]。

 方言札が登場する時期、授業内では現地語の使用禁止が定 着しつつあり、その後は授業以外の休み時間にも禁止の輪が 広がっていった。 伊波普猷が指摘しているように、方言札は 現地語を禁止するだけではなく「道徳的な罪」に問われると いう要素も備えていた[浅野 1991: 216]。学校の授業以外では 母語で会話していた生徒も、このような徹底した取り締まり により、自由に母語で会話することが制御され、母語で会話 する事が悪い事であるというような恥の意識が教育されてい ったといえる。教育者側からも、現地語排斥の声は強く「沖 縄で普通語(標準語)を広めるために現地の言葉を厳しく取 り締まらなければならない」という意見が見受けられる[帆 足 1903: 363]。その後も現地語禁止の輪は学校内に収まらず学 校外へも広まっていった。1930 年頃になると、学生や教師ら が、学校のない時間に外へ出て行き、その周囲の住民が「日 本語だけを話しているかどうか」を確認するようになるとこ ろまで徹底した現地語弾圧を行った。 この一見無謀なやり方が功をなしたのか、1940 年代には、家庭でも兄弟同士が日本 語だけを使うようになり、たどたどしい日本語を話す両親を 情けなく思う子供たちが出てきたことが報告されている[ま しこ 1997: 152]。つまり、沖縄人が自分たちの母語を恥だと認 識するようになったわけである。また、日本語を話さない両 親のために、学校側が定期的に「談話会」を主催し、通訳者 を通して子供たちの教育について説明するという機会を提供 した[近藤 2006: 178-180]。そこでは、優秀な生徒に日本語で 書いた作文を読ませるなどして、日本の学校教育が成功して いる様子をアピールしていたという記録もある。家庭でも積 極的に日本語で会話するよう、両親を教育する事も惜しまな かった。このように、日本語教育は学校内にはとどまらず、 生徒の個人的な生活をも支配するようになったといえる。

6 おわりに

 今まで手に取った「日本語教育史」関連の書物の中に台湾 や満州などと同じく沖縄が登場したことは、あまり見たこと がない。確かに沖縄は台湾や満州とは違い植民地ではなかっ た。しかし、いくら琉球が沖縄という地名に変えられ、正式 に日本の国の一部になったといえども、沖縄での国語教育は、 当時の日本の植民地と変わらず、現実には「外国語としての 日本語教育」だったのではないだろうか。

 最後に「日本語と琉球・朝鮮語・アルタイ語との親族関 係」という題目で 1948 年、言語学者の服部四郎が日本民族学 会の紀要で発表した論文の中から一文引用したい。

 沖縄列島に行われる言語は、九州以東の言語とは著しくこ となり、それが日本語の内の「琉球方言」と呼ばれた理由 は、同じ日本国内に行われていること、この地方に「内 地」と同じ共通語が行われていることであった。琉球が日 本から分離するとすれば事情は自ら異なってくる。〔服部 1984: 117〕この服部四郎の引用文が示すように、どこの国に属してい るのかという政治的な効力により、ある地域固有の言語は、 「言語」ではなく「方言」とされる。沖縄の日本語教育の歴 史を振り返るとき、その事実が浮かび上がってくるのではな いだろうか。

参考文献

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服部四郎. 1984.「日本語と琉球語・朝鮮語・アルタイ語との親

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外間守善. 1971.『沖縄の言語史』. 東京: 法政大学.
帆足登稀. 1903.「言語に就いて」.『琉球教育』第九十号首里

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